先週、祖父が亡くなった。90歳だったので、結構長生きした方だ。

母方の祖父にとっては初孫だった僕には祖父と二人で遊んでもらったりした幼い日の頃の思い出がいくつか残っている。供養にそれを少し紹介したい。

僕が生まれた約30年ぐらい前、祖父は東京の初台に住んでいた。今はマンションが林立している場所になっているけど、バブル期の地上げにあってそこを離れる頃までは比較的緑に恵まれた場所だった。幼少期の僕は母に連れられ、良くそこへ行った。
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4歳ぐらいの頃、僕は祖父にその頃出来たばかりの京王新線の初台駅から京王線沿線の「遊園地」と僕が呼ぶ場所に連れて行ってもらった。僕は遊園地と思っていたが、乗り物があるわけではなく、コイのいる池のある少し静かな公園で、コイのえさ(コッペパンぐらいのデカイ麩)を買ってもらって、コイにあげた記憶がある。新線じゃないほうの京王線はまだ真緑の車両が走っていて、初台駅の側まで地上を走っていた頃である。その「遊園地」がどこだったのか、少し突き止めたい気持ちが今はある。

京王線に関してはもうひとつ記憶があって、新宿駅で都営新宿線への乗り入れが開始されたとき(Wikipediaによるとそれは1980年らしい)、祖父にお願いして(その頃僕は男の子らしく電車に興味があった)その都営新宿線の当時の終点である東大島まで連れて行ってもらった。東大島駅の端から、先が途切れている線路とその先にある川(さっき、googleマップで荒川ということが分かった)を見ながら、「ずっと千葉まで行くようになるんだよ」と教えてもらった。去年仕事で今のその都営新宿線の終点「本八幡」の側に寄る事があって、それを思い出した。

あと、その頃うちの庭には本当にたくさんのトンボが飛来してきていた。遊びに来た祖父とその飛び交うトンボを捕まえて遊んだ記憶が鮮明だ。意外に網をすばやく使う祖父の姿を見て、子供心にうまいなぁと感じた。

炭鉱の技術者だったのだが、その話よりも戦争に行った話の方が多かった気がする。南方に出征したのだそうだ。食べ物がなくつらい思いをしたが、マラリアにかかり、不幸中の幸いにして激戦化する前に日本に帰れたそうだ。ただ、最近「終戦のローレライ」を読んで、南方戦線のより詳しい惨状を認知するに、「食べ物が無い」とい状況が、その話を聞いた当時の想像を遥かに超える過酷さだったのではないかと思うと、胸が詰まる。

小学生以降はあまり祖父に関する深い思い出は無く、僕が岩手に移ってからはほとんど祖父の家には行かなくなってしまった。ただ、あまり孝行できないでいたことはずっと気にかかっていて、2年前に祖母が亡くなった葬儀の最中、足が弱くなった祖父に気を遣ったり、最年長の孫として他の孫連中に指示を出したりして、自分も一人前になったことを示すことでそれを取り返そうとした。

そんな思い出とともに、祖父の冥福を祈りたい。

あと、もう少し生きてくれていればひ孫の顔もみせてあげられた。妻によると、僕は祖父に良く似ているそうだ。僕も貧乏ユスリのクセは祖父から遺伝したものだと思っている。娘(仮)にもきっと祖父の何かを引き継いでいるんだろうということを伝えたいと思う。